孟子三章范文
時間:2023-03-25 13:48:23
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篇1
皙玉倒吸了一口涼氣,身子緊緊貼著墻壁.
鄭老師說:"去,給我到操場跑10圈."
"什么,10圈?我的運氣怎么這么差啊,這老師也太狠了,氣死我了!"皙玉一邊想著,一邊用眼睛狠狠盯著那個打小報告的男生.以前她從未被老師罰過,因為她一直是一個懂事,乖巧,品學兼優的好學生,一直被同學當做榜樣,可今天居然被老師罵了.
鄭老師對皙玉說:"看什么看,快點跑步去!"見老師這么說,皙玉只能去了操場.
這操場好啊,一圈有800米!皙玉差一點暈了過去,10圈,是8000米啊!鄭老師見皙玉傻站著,便大聲說:"跑吧,10圈,我在這兒數著."
皙玉拖著兩只無力的腳跑了起來.當皙玉跑了半圈時,鄭老師忽然叫皙玉停下來.皙玉一驚,什么事啊?
篇2
“安弈俊哲!他,他為什么會來?!”我驚呆了,憤憤地想:他離開了我那么久,肯定早把我忘了,切~
我悄悄地走出幕布,走進貴賓席。
貴賓席里——
“媽,你知道悠夢姬嗎?”安弈俊哲用他一貫的迷人微笑問一位貴婦,“哦,我不知道她,但只知道中國有位非常有名非常有才華的小姑娘叫悠悠,應該就是她吧。恩?悠夢姬,不是你以前的鄰居嗎?”她用非常生硬的漢語回答道。
“恩......悠悠......”安弈俊哲沉默了。
“啊喂!你是誰?你是不是安弈俊哲?”我走進去大聲地問他,鼓著臉,嘴撅得高高的。“恩?是啊,我就是,怎么啦?”俊哲看著我,一臉調戲的神情,“我不認識你啊,你是誰?”“我...我...”我氣得說不出話來,“你忘記我啦..”(我快哭啦我哭我哭我使勁地哭!)
“跟我來。”俊哲竟然像沒事人一樣牽著我的手走哦,不是忘了我了嗎,啊哼!我一撇手,怒視著他,“別煩!”他平靜地說道,又牽起了我的手,把我帶到貴賓席的一件房間里。他突然用左手撐住我的頭,帥氣的面孔在我眼前放大,我閉上眼睛,感到他噴出的熱氣都撲散在我臉上,我和他嘴唇的距離只用一片樹葉的薄厚,他一附頭,一股溫熱的柔軟感從嘴唇傳來。
篇3
はじめに
江前期の儒學者伊藤仁(一六二七年~一七五年永四年~寶永二年名は、字は源佐、仁と號する。以下は仁という)は京都商家に生まれ、最初に朱子學に倒し、三十代半ばに朱子學から脫出し、朱熹らの後世儒者が中國古代の孔子?孟子思想への曲解を批判しながら、直接孔孟學の本來の意味を再することを唱えて自分なりの學を立した。その學派が「古學派と言われる。
仁は孔孟を人として尊していた。『と『孟子を非常に重し、「を「最上至宇宙第一(『孟字)と稱する。さらに、『孟子を「孔の太宗?嫡派なり。(『孟子古)と高くする。その上で『古『孟子古『孟字などの著を著した。
周知のように、孟子の王道が孟子の思想の主要內容である。仁は一生仕官したことがなかったが、政治思想面では孟子の王道を受容するとともに理想的政治王道世界を立する。しかし、仁が孟子の學を受容する程で理解する「王道思想と孟子本來の王道思想はどのような相點があるのか、このような疑をもって仁の政治王道の獨特な地を探したい。本稿は主に孟子の王道及び仁の理解する王道思想との比を通して仁の思想の獨點を出そうとすることを目的として考察したい。
まず、孟子及びその思想について以下のように述べる。
1 孟子という人物とその思想
孟子(前372年?~前289年?)は中國國代における國の(在の山省城市)の人である。名はで、字は子または子ともいう。孟子は孔子のである子思に教えを受け、儒家の思想を身につけたとえられる。(①を參考する)また、儒學古典の中に特に重要された「四の一つである『孟子は孟子の唯一の著作とされる。以下は『孟子本文をみながら孟子の王道について考察する。
1.1 「王道の始めなり:梁王篇は『孟子七篇の首篇である。その第三章では「生をい死をして憾みなきは。王道の始めなり。(『孟子「梁王篇上②69)とある。「王道という言が最初に使われる。
1.2 「恒ければ、因りて恒心し:孟子は「民のごときは、即ち恒ければ、因りて恒心し。いやしくも恒心なければ、放辟邪侈、さざるなし。(同上)というように、人民の生活の安定をることの大切さを孟子はしている。
1.3 「仁政:『孟子「梁王篇の第五章では、「地、方百里にして以て王たるべし。王如し仁政を民に施し、刑を省き、稅を薄くし、深く耕し易く耨り、壯者は暇日を以てその孝悌忠信を修め、入りては以てその父兄に事え、出でては以てその上に事えしめば、梃を制って以て秦?楚の甲?利兵をたしむべし。(同上77)とある。
孟子によれば、「仁政とは孟子の王道の主眼であると言えるだろう。
1.4 「民としみを同じくすればなり。:「今、王百姓としみを同じくせば、即ち王たらん(『孟子「梁王篇下)と孟子は言っている。つまり、民と一にしむということは王者が「王道を行う最も基本的內容であろう。
1.5 「民をしとし、社稷これに次ぎ、君をしとす。:「盡心篇下篇の第十四章では、孟子は「民をしとし、社稷これに次ぎ、君をしとす。というような民本思想が孟子の王道の核心思想であると考える。
1.6 王者と者の:孟子は王道を提唱するとともに、王道を行う王者を者と比しながら王道の必要性及び重要性をしている。以下は『孟子本文の中の王?のについてする。
「力をもって仁をる者はたり。は必ず大國を有つ。を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。(「公丑上第三章)
とある。孟子のは、以下の三つの點にまとめる。
①「力と「の區:孟子によると、武力と道が王者と者の區の基とされる。孟子は武力の道を否定して仁の道の王道をく主している。
②「仁をると「仁を行うの區:者の合は、服した人々は表面上では者に服するが、には內心から者にして不してっているのではなく、自身の能力が不足するから服するしかない。
それに反して、王者の合は、人々は心の底から王者が行う政治にして足して喜んで王者に服する。道をもって政治を行う王者はその果として、「をもって人を服する者は、中心悅びてに服す。となる。
③「王は大を待たず。:王者の合、「は七十里をもってし、文王は百里をもってす。とある。逆に、者の合、自身の利益をって自國をくするように武力でをげて大國となる。
以上の六點は『孟子本文をんだ後、孟子の思想の一部を取り上げて考察してきた。
2 伊藤仁の王道
次は仁自身が「王道それ自體をどう考えていたのか。それについて、仁の理解する孟子の「王道に主眼をおき、以下の三つの點からめていきたい。
2.1 仁の理解する「王者の概念:「の學は王道を本とする。
「孟子意めて忠厚、其の學王道を以て主と、仁を以て宗を。人君にむるには、仁を以て先と、民を救ふを急と(③「孟子古336)という。
仁は仁のが王道を踐する肝要なことであると主している。さらに、王者の位について、高熙卓が述べるように、「(仁は)王道政治の『王の概念を、『天下の位の意味ではなく、『仁政を行う有『の政治力の意味として捉え直している。ということである(④)。仁の言った「王者とは仁政を行う王者を指して、必ずしも當の在位した政者を特定的に指すものわけではないと言ってもよいのではないだろうか。
2.2 王者の:仁の著に言及する「王「王心などの概念は「王者自身の內在的なものではなくて、王者が百姓にする具體的な踐を通して表されるものと言ってもよいのだろうか。その根としては、仁は「天下にするをり返しすることである。王者自身の內在的修についてほとんどじていない。「人を言いて心を言わず。(「孟字上「第4條)と仁はいた。また、「孟子に至って、多く心をく。しかれども亦みな仁の良心を指して言う。特に心をかず。(同上「心第1條)と言う。いて、「人の道は、彝(日常の道)をもって本となして、恩をもってびとすと述べる(同上第4條)。要するに、仁は王者自身の道修を全面的に信じることができない。彼の所「王者のとは王者自身の內在的道意上のではなくて、外在の意を持っている具體的行を通して「民を安んじるという天下への充するである。その點について仁の「孟字における「王霸の辨を注目してる。
2.3 王の辨:前にじた孟子の王道の中の「王者と者のという內容を比しながら、仁の王について、主に以下のように整理して述べる。
①民をう王者と民を治む者:仁は「けだし王者の民を治むるや、子をもって之をう。者の民を治むるや、民をもって之を治む。(「孟字下王第2條)という。この條目からみ取れることは、王道と道の區の基は「うによるかどうかということであろう。
②?と大?小の區:「王者はをもって本とし、しかもいまだかつて法くんばあらず。しかれども法とはそのをしくゆえんにして、その恃むところにあらざるなり。者は法をもって本として、をりてもって之を行う。しかれどもにその有ることあたはずといた。「と「法を基として王道と道を區する。それゆえに、仁は「けだし大は能く小を制し、小は大にすることあたわざるなりというを述べる。ここの「大は「王を指して、「小は「を指すということであろう。つまり、王者は者の力を抑えつかられるが、者は王者にえないということである。しかし、仁は孟子と少しって、孟子の「力をもって仁をる者という者にする度がそんなにしく非していないようであることを伺える。
3 伊藤仁と孟子の王道思想の相點
最後に、彼らの王道思想の相點について、上の二人の思想の內容によって以下のを得る。
仁は王者人の內在的な道を基とすることのではなく、外在の踐成果を重んじる向がいと考える。孟子がする「人恒の言あり。皆曰く、『天下國家と、天下の本は國に在り、國の本は家にあり、家の本は身にありという王者の自身修の重要性が仁の念の中に薄らいてきたといえるのではないだろうか。
仁が王道をずるに「所王道とは、亦仁に由って行ふのみ。仁を外にして所王道という者し。(『孟子古)と述べるように、仁を重んじて仁の道を王の辨の判斷基するが、その仁の字は孟子の原意ではないと考える。では、孟子の仁の本來の意味は何なのだろうか。
政治からみると、孟子曰く「人皆人に忍びざるの心あり。先王、人に忍びざるの心ありて、即ち人に忍びざるの政あり。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行なわば、天下を治むこと、之を掌上にらすべし。とある。孟子は「人に忍びざるの心をの心と言う。即ち、「仁心を言う。「人に忍びざるの政を即ち「仁政という。孟子の仁政の理的基は「人に忍びざるの心より「人に忍びざるの政へ充することであると思われる。心のきは孟子の思想の中の大切の部分であると考える。つまり、孟子の王道は王者が仁のを身にえて、そのをしての々の功となり、人民の幸福を與える果を生ずるべきであるものである。王者の自身のとそのによるよい果は方とも王道ののために欠かさずに大切なものであると述べられる。(⑤228を參考する)したがって、「孟子の性善のを唱へて、以て仁の心は即ち己れが固有なることを明す。という(⑤338)。
また孟子は「仁禮智は、外より我をるに非ざるなり。我固よりこれを有するなり、思わざるのみ。と主している。四端の心が獨立の體のなかに存在するといた。一方、仁は「人はをんで心をばず。(『孟字上心1)と言って、ある程度では己の心の的なところに否定すると言えるのだろうか。また、仁は所「道の本體(仁禮智の)は「天下古今の(『孟字上仁禮智4)とく。さらに、「道とは遍く天下にするをもって言う。一人の有するところにあらず。性とは、もっぱら己に有するをもってして言う。天下のかぬるところにあらずという上に、「仁禮智の四者は、みな道の名にして、性の名にあらず。ということを主する。仁禮智などのは人に屬するものではないとされて、充してそれを天下にするものであると主する。この點について、仁の主と孟子の學はやはり矛盾していようにえるのではないだろうか。これも孟子の學との本的な相點であると考える。
要するに、孟子は人の努力に力點を置くのにして、仁は天下に及ぶ他者に向けた踐行に力點をおくことである。それで、仁の王道政治の具體的踐面のが著であるというを得られる。それは仁の王道思想の獨點の一つであると言えるのではないだろうか。
おわりに
本稿は主として仁の政治王道の特色を明らかにすることを出點として、古學者としての仁が理解する孟子思想と中國の古代の孟子の思想(主に王道)を比しながらにし、仁の王道思想の獨點を出そうとしてきた。
參考文獻
[1] 江隆.『子百家の事典.大修店,2007年5月1日
[2] 茂.『孟子.社學文,2004年9月10日
[3] 木村英一.『伊藤仁集.1970年1月25日
篇4
夜以繼日。夜以繼日一詞,出自《孟子-離婁下》:禹惡旨酒而好善言。湯執中,立賢無方。文王視民如傷,望道而未之見。武王不泄邇,不忘遠。周公思兼三王(系指夏、商、周的賢王仁君),以施四事(四事系指禹、湯、文王、武王四人的行事),其有不合者,仰而思之,夜以繼日,幸而得之,坐以待旦。(《莊子-至樂》亦有夫貴者,夜以繼日,思慮善否之語)。
日以繼夜,見諸史料很少,春秋時魯國史官左丘明的《國語-吳語》中的一句話,勉強可算:孤日夜相繼,匍匐就君。在此,左丘明用的是日夜相繼,與現代的日以繼夜高度相似,所以,日以繼夜也并非是完全憑空生造之詞。近代著名作家丁玲在其愛情悲劇小說《韋護》的第三章中,就有這樣的描述:他們日以繼夜,夜以繼日,棲在小房子里。
夜以繼日,就是以夜繼日,以當用講。譯成現代漢語就是用夜晚接續白天。因此,如果誤寫成日以繼夜,就成了用白天接續夜晚,顯然與原意相悖。夜以繼日與日以繼夜雖然都是表示不分晝夜地艱辛付出,但是,如果要講用法的規范,還是夜以繼日更符合其詞語的本義。
(來源:文章屋網 )
篇5
關鍵詞:哲學;人類社會;政治
基金項目:中央高校基本科研業務費專項資金資助;江蘇省普通高校研究生科研創新計劃資助項目“荀子的禮法觀與現代法治精神”(KYLX_0070)。
中圖分類號:B22 文獻標識碼:A 文章編號:2095-0063(2016)02-0006-04 收稿日期:2015-12-01
哲學作為一種“愛智慧”的學問,不論其追尋何種智慧,最終肯定不能脫離人類社會孤立存在,事實也證明了這一點。古希臘時期,對世界本原的探求是其哲學思考的源頭,而當普羅泰戈拉提出“人是萬物的尺度”時,哲學思考的視角慢慢移向人類自身,再后來蘇格拉底對“認識你自己”的強調,無疑哲學思考的重心轉換成了人,而不是自然,自然科學后來從哲學中獨立出來也是很自然的事情。而人是怎樣的一種存在呢?亞里士多德一針見血地指出“人是天生的政治動物”,由此可見在古希臘時期存在這樣的思想軌跡:自然—人—政治層面的人。再看一下同處于“軸心時代”的中國,哲學家們關注的主要問題是什么,梁啟超做了一個較好的概括:“中國學術,以研究人類現實生活之理法為中心,古今思想家皆集中精力于此方面之各種問題。以今語道之,即人生哲學及政治哲學所包含之諸問題也。”[1]梁啟超先生首先肯定了中國哲學是關注現實生活的,而具體關注的是什么樣的社會生活呢,梁先生概括為人生哲學和政治哲學。其實在中國的人生哲學中處處滲透著政治的影子,儒家思想自不必說是以政治生活為指向的,就連最講人生哲學的莊子,也認為人最終無法逃離君臣之義社會政治生活。可以發現哲學家對人的思考總是以當時的社會政治為背景,脫離社會的人是不存在的,因此即使是最純粹意義上的人生哲學最終也脫離不開社會關系,而社會關系應當如何締結則是政治哲學的范疇,梁啟超先生認為人生哲學與政治哲學并不是截然分開的。可以發現這樣一個有趣的現象,在古希臘和古代中國兩大文明的“軸心時代”,關注的中心都自覺或不自覺地移向了人類社會,而且是以政治為中心的人類社會,這并不是一種巧合,在某種程度上印證了本文的主旨,那就是哲學關心的問題應該是什么或者什么才是哲學思考的基石,很顯然,哲學的基石應該是以政治為中心的人類社會。
一、哲學是對人類社會的思考
任何一種哲學流派其思想歸宿無不是落實于人的,脫離人類生活的哲學是不存在的,而人并不是作為個體孤零零地存在的,那些即使是專注于思考個體價值的哲學也總是以人類社會為背景。因此,從本質上來講,哲學便是對人類社會的一種形而上思考,即人應當過一種什么樣生活的問題。首先,要對人自身有一個基本的認識,對人認識的不同從根本上決定著對過什么樣生活認識的不同。讓我們回到中國文化的“軸心時代”,重新審視幾派的主要哲學家對人的認識以及對人應該過怎樣生活的設計。以孔子為代表的儒家對人始終抱有樂觀的態度,盡管對人性的看法不盡一致,比如孟子持“性善”說,荀子持“性惡”說,然而他們都堅信人通過自己的努力和學習,可以實現“善”,因此儒家尤其注重道德教化的作用。正如美國漢學家倪德衛所認為的那樣:“因為有德是非常有利的東西,除了我為德自身的緣故,不為我自己求德之外,我可以用任何產生德的方式來求德。”[2]確實如此,由于儒家對人性相對樂觀的態度,使他們不約而同地為人設計一種“道德”的生活。孔子思想的核心是“仁”,他講“克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉”(《論語•顏淵》)。孔子認為人應該過一種“仁”的生活,“仁”可以使人與人之間維系良好的關系,從而實現社會的穩定,用孔子的話講就是:“夫仁者,己欲立而立人,己欲達而達人。能近取譬,可謂仁之方也已。”(《論語•雍也》)孔子始終將目光關注在人類社會關系之上,并認為“仁”便是處理人類關系的良方。而孟子則認為人性生來就有“四端”,只要善加保養就可以擴展這“四端”:“惻隱之心,仁之端也;羞惡之心,義之端也;辭讓之心,禮之端也;是非之心,智之端也。人之有四端也,猶其有四體也。有是四端而自謂不能者,自賊者也;謂其君不能者,賊其君者也。凡有四端于我者,知皆擴而充之矣,若火之始然,泉之始達。”(《孟子•公孫丑上》)而為什么要對這“四端”加以“擴而充之”呢?孟子認為這是人之所以異于禽獸之處,是人類處理社會關系的關鍵所在。他講:“人之所以異于禽獸者幾希,庶民去之,君子存之。”(《孟子•離婁下》)如果每個人都對這“四端”加以“存之”的話。自然就能做到“老吾老,以及人之老;幼吾幼,以及人之幼”。(《孟子•梁惠王上》)孟子之所以如此強調“四端”的重要性,就是因為良好人類社會關系的確立是以此為基礎的,也是人與禽獸的分野之處。在儒家另外一位大師荀子那里,人類社會更成為其關注的中心,荀子講“性惡”并不是指人性天生就是“惡”的,而是認為在社會關系中如果一味順從人的本性,就會產生爭斗,因此荀子的“性惡”只是立足于人類社會關系來講的。荀子說:“人生而有欲,欲而不得,則不能無求;求而無度量分界,則不能不爭;爭則亂,亂則窮。”(《荀子•禮論》)又說:“凡古今天下之所謂善者,正理平治也;所謂惡者,偏險悖亂也。是善惡之分也矣。”(《荀子•性惡》)由此可以發現荀子衡量善惡的標準是建立在社會治亂平臺之上的,從另一個層面解讀也就是人不能脫離社會關系而存在。道家思想盡管對宇宙自然有一定的探討,然而其致思的中心依舊是人類社會。英國漢學家葛瑞漢認為:“像《莊子》那樣,《老子》要求人們摒棄固定的原則,而使自己符合于作為人的自然傾向的宇宙之‘道’。”[3]確實如此,道家之所以如此強調“自然”,從本質上來講是為了給人類的行為尋找一種依據,如老子講:“人法地,地法天,天法道,道法自然。”(《老子•第二十五章》)很顯然老子的思維是以“人”為原點,從“人”的立場出發的,盡管“自然”在邏輯上是高于“人”的,然而從本質上講,“道”不過是為人提供生活方式的依據而已。老子從來沒有離開對現實社會生活的關注。老子講:“天地不仁,以萬物為芻狗;圣人不仁,以百姓為芻狗。”(《老子•第五章》)在這里老子將“天地”與“圣人”以及“萬物”與“百姓”相比照,其目的很顯然就是為人類社會尋找依據,而并不是去探討天地的自然規律。在道家另一位代表人物莊子那里,“道”同樣是作為人的生活方式而存在的,而并不是脫離人類生活去追尋虛無縹緲的“道”,他說:“魚相造乎水,人相造乎道。相造乎水者,穿池而養給;相造乎道者,無事而生定。故曰,魚相忘乎江湖,人相忘乎道術。”(《莊子•大宗師》)在這里,莊子認為“道”之于人就像水之于魚一樣重要,“道”其實就是作為人的一種生活方式而存在。由此可見,在道家那里,盡管“道”相對于人具有某種程度上的超越性,但是“道”絕對不是脫離人類生活而存在的,人應該過順從“道”的生活,過順應自然的生活。法家認為人生來就是趨利避害的,退出了儒家堅守的道德陣地,將人性還原為一種自然性,社會關系的建立則是君主通過刑賞的方式,利用人民趨利避害的人性對人民進行控制。商鞅說:“民之有欲有惡也,欲有六,惡有四難。”(《商君書•說民》)商鞅認為社會關系完全是建立在人的好惡基礎之上的,人與人之間其實就是一種裸的利益關系。法家另外一位代表人物韓非子也同樣認為人與人只是利益的關系:“醫善吮人之傷,含人之血,非骨肉之親也,利所加也。故輿人成輿則欲人之富貴,匠人成棺則欲人之夭死也,非輿人仁而匠人賊也。人不貴則輿不售,人不死則棺不買,情非憎人也,利在人之死也。”(《韓非子•備內》)在這里,韓非子認為人與人之間的關系不是靠道德維系的,只是一種利益關系,這與儒家強調道德在人際關系中的作用形成了鮮明對比。總之,盡管各個學派對人性的看法不盡一致,對人類社會生活方式的設計也大為不同,然而都有一個共同之處,就是都關注于人類社會,其哲學都以人類社會作為出發點。由此,可以得出這樣的結論,那就是哲學不能脫離人類生活,脫離人類社會的哲學思考是不存在的。
二、政治是人類社會的中心
既然哲學是對人類社會的思考,那么人類社會如何建構必然成為哲學的首要問題,而人類社會以什么樣的方式建構顯然屬于政治哲學的范疇。因此可以講政治是人類社會的中心,任何社會關系無不是圍繞著政治問題展開的。再次回顧中國“軸心時代”哲學家們關心的核心問題時,可以發現他們關注的首要問題無不是政治問題,也就是社會如何建構的問題,太史公司馬談在《論六家要旨》中講道:“夫陰陽、儒、墨、名、法、道德,此務為治者也,直所從言之異路,有省不省耳。”(《史記•太史公自序》)司馬談認為各家的最終目標都是“務為治”,只不過解決的方法不同,確實很有見地。在儒家那里,之所以強調道德的重要性,原因就在于道德是實現國家治理的根本方式,儒家強調道德修養的最終目的是治國平天下。孔子講:“為政以德,譬如北辰居其所而眾星共之。”(《論語•為政》)很顯然孔子認為“德”作為實現社會治理的一種方式具有至關重要的地位,“德”從本質上來講就具備著政治的內涵,“孔子思想的重要特點在于其政治性”[4],所以孔子認為只要遵守“德”本身就是從政:“《書》云:‘孝乎惟孝,友于兄弟,施于有政。’是亦為政,奚其為為政?”(《論語•為政》)孟子則將“仁政”的基礎建立在人的“善端”之上,認為統治者如果能保持自己內心的“善端”,自然就會實行“仁政”,而“仁政”則是治國的關鍵,他說:“離婁之明、公輸子之巧,不以規矩,不能成方圓;師曠之聰,不以六律,不能正五音;堯舜之道,不以仁政,不能平天下。”(《孟子•離婁上》)在儒家另外一位大師荀子那里,則將禮作為社會治理的主要手段,他說:“人生而有欲,欲而不得,則不能無求;求而無度量分界,則不能不爭;爭則亂,亂則窮。先王惡其亂也,故制禮義以分之,以養人之欲,給人之求。”(《荀子•禮論》)通過禮的道德教化,荀子認為可以實現社會的良好治理。總之,在儒家的思想體系里,道德始終服務其政治目的,政治和社會才是儒家關心的終極目標。正如周桂鈿先生所言:“儒學也是產生于社會與政治的需要。”[5]道家雖然在某種程度上更關心個體的自由,然而其思想的最終歸宿依然是社會政治生活,只不過在道家看來,儒家以道德作為社會政治的方式存在著弊端。正如老子講:“大道廢,有仁義;慧智出,有大偽;六親不和,有孝慈;國家昏亂,有忠臣。”(《老子•第十八章》)道家追求一種順應自然規律的社會政治秩序,而反對過多的人為。老子認為只要每個人回歸一種自然質樸的生活狀態,社會就會得到很好的治理。他講:“不尚賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使民心不亂。是以圣人之治,虛其心,實其腹;弱其志,強其骨。常使民無知無欲,使夫智者不敢為也。為無為,則無不治。”(《老子•第三章》)又講:“以正治國,以奇用兵,以無事取天下。”(《老子•第五十七章》)很顯然,老子之所以強調“無為”并不是什么都不做,而恰恰是為了實現“無不治”,也就是最終目標和儒家一樣,依然是社會政治生活,因為所謂個人的自由最終只能以當時的政治生活為基礎。道家另外一重要代表人物莊子非常關注個體的生命自由,然而他還是認為人是無法脫離政治生活的,王博先生也這樣評價莊子:“的確,在一個專制的社會中,誰又能說自己的生命和君主無關呢?莊子見慣了以衛君為象征的殘暴君主,他和一般人一樣,希望君主可以變得理想一些,能夠給自己也給普通的人們帶來一個輕松的生存空間,不必再身陷‘民其無如矣’的困境。”[6]確實如此,莊子的思考始終沒有脫離當時的社會政治,或者說同老子一樣,同樣在表達著何為理想社會政治的構想。莊子理想中的社會秩序便是一種“至德之世”。他講:“吾意善治天下者不然。彼民有常性,織而衣,耕而食,是謂同德;一而不黨,命曰天放。故至德之世,其行填填,其視顛顛。當是時也,山無蹊隧,澤無舟梁;萬物群生,連屬其鄉;禽獸成群,草木遂長。是故禽獸可系羈而游,鳥鵲之巢可攀援而靁。”(《莊子•馬蹄》)很顯然,莊子有明確的政治理想,他的人生哲學始終是以其政治理想為背景的,簡言之,沒有一種理想的社會,個體的自由是很難實現的。同樣,在法家那里社會政治是思考的中心,法家尤其強調君主對于民眾的控制。商鞅講:“昔之能制天下者,必先制其民也;能勝強敵者,必先勝其民者也。故勝民之本在制民,若冶于金,陶于土也。”(《商君書•畫策》)在社會治理的過程中,又尤其重視法的作用,而與儒家重視道德形成鮮明的對比,商鞅明確地說:“明王之治天下也,緣法而治,按功而賞。”(《商君書•君臣》)韓非子在強調法的同時,也重視術:“法者,編著之圖籍,設之于官府,而布之于百姓者也。術者,藏之于胸中,以偶眾端而潛御群臣者也。”(《韓非子•難三》)韓非子認為君主用法來治理百姓,用術來駕馭群臣,那么社會就會得到很好的治理。總之,法家十分關注政治操作層面的運作,其哲學本身就是一種政治哲學。綜上所述,盡管各家對建立一種怎樣的社會持不同看法,各自設計著心目中的理想社會,然而相同的是,都沒有脫離政治生活,政治始終是思考的中心。
結語
筆者通過對中國哲學所關心問題的考查得出一個結論,哲學的思考始終沒有脫離人類生活,政治是人類社會的中心,哲學關注的焦點是以政治為中心的人類社會。其實不僅中國哲學如此,西方哲學同樣也是以人類生活為關注點,并且出現了政治哲學的轉向。因為脫離了人類生活的哲學注定是沒有生命力的,只會墮落為沒有任何實質意義的文字游戲;人類不是作為個體孤立地存在的,必然結成社會來共同生活,而何種社會生活是好的又必然是一種政治哲學。因此可以這樣講:以政治為中心的人類社會是哲學的基石。
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篇6
關鍵詞:思想政治課;學生;弟子規
中圖分類號:G651 文獻標志碼:A 文章編號:1674-9324(2013)41-0266-02
高職院校學生主要來自于高中應屆畢業生。孩子是祖國的未來,如果孩子沒有德行,縱然他有科學知識,那么將來必定會形成讓社會混亂的一種力量,他越有科學知識而沒有品行越是危險,可以說孩子有才無德是很危險的。思想政治課是高校的一門必修課,也是學生不愛學習的一門課。為了增強學生對思想政治課的吸引力,提高思想政治課的育人效果,本人從2010以來,在鐵嶺師范高等專科學校《思想道德修養與法律基礎》課的教學中,除了運用教材中的經典警句,還引入了大量的中華經典詩文,使現代思想政治教學內容與優秀傳統文化有機結合,收到了令人滿意的效果。
一、中華經典詩文的選擇與融合
1.“緒論”。學到“培養優良學風”時,與“勤奮”有關的,我引用了《弟子規》中的“朝起早,夜眠遲。老易至,惜此時”;與“嚴謹”有關的,我引用了《弟子規》中的“不力行,但學文。長浮華,成何人”;與“求實”有關的,我引用了《弟子規》中的“見未真,勿輕言。知未的,勿輕傳”。在緒論中,前面提到了《弟子規》上的部分語句,可為學生后面的學習作鋪墊。
2.“第一章?搖追求遠大理想,堅定崇高信念”。學到“立志高遠”時,引入曹操的《龜雖壽》:“老驥伏櫪,志在千里;烈士暮年,壯心不已。”以晚年曹操的雄心壯志激勵學生更當立志;學到“正確對待實現理想過程中的順境與逆境”時,引入杜甫的《前出塞九首之九》:“丈夫四方志,安可辭固窮?”
3.“第二章?搖繼承愛國傳統,弘揚民族精神”。學到“愛國主義的科學內涵”時,在“愛自己的骨肉同胞”中引入《弟子規》的“凡是人,皆須愛。天同覆,地同載”;在“愛祖國的燦爛文化”中,向學生介紹中華優秀傳統文化的經典,倡導學生學習。在學到“愛國主義的優育傳統”時,在“熱愛祖國,矢志不渝”中引入林則徐的“茍利國家生死以,豈因禍福避趨之”;在“同仇敵愾,抗御外侮”中引入陸游的“王師北定中原日,家祭無忘告乃翁”。
4.“第三章?搖領悟人生真諦,創造人生價值”。學到“端正人生態度”時,在“人生須認真”中引入《弟子規》的“事勿忙,忙多錯。勿畏難,勿輕略。斗鬧場,絕勿近。邪僻事,絕勿問”;在“人生當務實”中引入《弟子規》的“不力行,但學文。長浮華,成何人。但力行,不學文。任己見,昧理真。讀書法,有三到。心眼口,信皆要。方讀此,勿慕彼。此未終,彼勿起”;在“人生要進取”中引入《三字經》的“口而誦,心而惟。朝于斯,夕于斯。昔仲尼,師項橐。古圣賢,尚勤學。趙中令,讀魯論。彼既仕,學且勤。披蒲編,削竹簡。彼無書,且知勉。頭懸梁,錐刺股。彼不教,自勤苦。如囊螢,如映雪。家雖貧,學不綴。如負薪,如掛角。身雖勞,猶苦卓。蘇老泉,二十七。始發憤,讀書籍。彼既老,猶悔遲。爾小生,宜早思。若梁灝,八十二。對大廷,魁多士。彼既成,眾稱異。爾小生,宜立志”。學到“用科學高尚的人生觀指引人生”時,在“反對拜金主義人生觀”中引入《弟子規》的“兄道友,弟道恭。兄弟睦,孝在中。財物輕,怨何生”。學到“促進個人與他人的和諧”時,在“平等原則”中引入《弟子規》的“凡是人,皆須愛。天同覆,地同載”;在“誠信原則”中引入《弟子規》的“凡出言,信為先。詐與妄,奚可焉”;在“寬容原則”中引入孟子說的“行有不得者,皆反求諸已”,引入《弟子規》的“恩欲報,怨欲忘。報怨短,報恩長”;在“互助原則”中引入“己有能,勿自私”。
5.“第四章?搖加強道德修養,錘煉道德品質”。學到“中華民族優良道德傳統的主要內容”時,在“推崇‘仁愛’原則,追求人際和諧”中引入《弟子規》的“將加人,先問己。己不欲,即速已”;在“倡導言行一致,強調恪守誠信”中引入《弟子規》的“凡出言,信為先。詐與妄,奚可焉”。
6.“第五章?搖遵守社會公德,維護公共秩序”。學到“社會公德的主要內容”時,在“文明禮貌”中引入《弟子規》的“人不閑,勿事攪。人不安,勿話擾”和《孟子?離婁下》的“愛人者人恒愛之,敬人者人恒敬之”;在“助人為樂”中引入《弟子規》的“己有能,勿自私。人所能,勿輕訾”;在“網絡生活中的道德要求”中引入《論語》的“非禮勿視,非禮勿聽,非禮勿言,非禮勿動”。
7.“第六章?搖培育職業精神,樹立家庭美德”。學到“家庭美德”時,引入《弟子規》的“父母呼,應勿緩。父母命,行勿懶。父母教,須敬聽。父母責,須順承”,以及《三字經》的“香九齡,能溫席。孝于親,所當執”和“父子親,夫婦順”。
8.“第八章?搖增強法律意識?搖弘揚法治精神”。在“弘揚社會主義法治理念”中引入《論語》中的“子曰:‘道之以政,齊之以刑,民免而。道之以德,齊之以禮,有恥且格”,灌輸依法治國和以德治國相結合的理念。
二、《弟子規》的系統學習
《弟子規》的內容出自《論語》、《孟子》、《禮記》、《孝經》、《朱熹語錄》等儒家經典,是儒家文化的精髓,而且語言精練,通俗易懂,內容豐富,便于傳播操作。所以,思想政治課引入中華經典詩文,可以《弟子規》為主。
1.老師講授。每次上課,用5~10分鐘時間系統講授,主要以蔡禮旭的《細講弟子規》為藍本,既引用經典的古代事例,又要選取當代的典型事例,這樣才具有更強的說服力,以免產生事例過時的懷疑。通過講授,讓學生明白道理,理解傳統文化的思想內涵并接受認可。任課老師可根據思想政治課的學期數、學時數,設計《弟子規》的學習時間,可安排1~2個學期。
2.學生學習。老師提倡學生課后學習《弟子規》,但不做硬性要求。學生對《弟子規》感興趣,想深入學習的,本人就給學生用硬紙殼抄寫一份,學生把它放在書桌上,隨時可以看到。本人任課的一屆五個班學生,總計218人,有122人要了抄寫的《弟子規》,超過了半數。
三、《弟子規》的課外實踐
道德修養的功能就是要規范人們的行為,以促進人的完善和社會的和諧。如果不實踐,只是講、只是背誦,那么道德的功能就落空了,我們學習的意義也就失去了。所以,我要求同學們按照規范去做,把《弟子規》落實到生活實踐中去。
1.校內實踐。鼓勵學生要在學習生活中踐行《弟子規》,為了調動學生道德實踐的積極性,把道德實踐作為思想政治課平時成績的一部分,成績的載體就是學生的實踐心得,學生寫實踐心得可以使學生反思、回味、總結自己的實踐過程,達到更好的實踐效果。發現學生言行有不妥的地方,老師及時用《弟子規》規范提醒學生改正,促進了學生的提升。學習、踐行一段時間后,師生共同分享學習、踐行的感受和心得,互相學習、借鑒、促進、啟發。
2.回家實踐。利用“五一”、“十一”和寒暑假,給同學們留作業――孝親:根據自家的實際情況,做孝敬長輩的實事。而且堅持經常完成作業,包括假期。為了得到家長朋友們的配合,讓同學們更好地完成作業,我們還給家長朋友們寫了一封建議信。因為,據同學們反映,平時在家孝親時總是遭到父母的“阻攔”,當然這阻攔是善意的,但這會在德育過程中起到相反的效果。在信中,我建議家長朋友們成全孩子們的孝心,并且對孩子在假期作適當的要求與約束,建議家長朋友們平等地與孩子交流、溝通,也適當尊重孩子的意見等。
四、中華經典詩文對學生德育的提升
1.學生懂得盡孝了。學生以前都不太懂得盡孝,學了《弟子規》后知道體諒父母了,不惹父母生氣了。
2.學生變得文明禮貌了。學生的言談舉止比以前文明了,吵架的沒有了。老師們都感覺到學生們比以前懂禮貌了,在公交車上,給年長的人讓座的也多了。
3.學生的學習積極性提高了。學生的精神面貌改變了,有精氣神了,學習自覺主動了,上課紀律也好了.學習積極性的提高源于對孝心認識的提升,因為學生明白了好好學習也是在孝敬父母。
4.學生的人際關系和諧了。學生結合在校生活的實際,嘗試用《弟子規》的內容處理同學之間的關系,學生體會到:尊重別人了,別人開心了,反過來自己也更好了,尊重別人就是尊重自己。這樣學生就學會了用和諧的心去與人相處。
5.學生的思想境界提升了。學生結合自己的思想、情緒實際,嘗試用傳統文化的思想來指導、解決思想問題,達到思想統一,情緒穩定,態度樂觀,心情愉快,自身和諧并提升思想境界。比如,用“人不知而不慍,不亦君子乎”來提高自己的修養,不被別人的評價左右自己,理解別人,善待別人與自己,不用別人的不知或錯誤來無端地懲罰自己。
總之,在《思想道德修養與法律基礎》課中引入中華經典詩文,豐富了課程內涵,把學生帶入了傳統的圣賢文化,這是教育的回歸。通過學習和實踐,學生的心靈得到了洗滌,道德水準有了明顯的提升,這是教育的升華。
參考文獻:
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篇7
[關鍵詞]心論 性論 人心道心 心性關系
[中圖分類號]B248.5 [文獻標識碼]A [文章編號]1000-7326(2008)05-0024-06
在中國哲學史上.如果說老莊道家多言自然之道,那么孔孟之道則多言人倫之道、人倫之理,幾千年儒學相傳,所重者無非是此綱常倫理而已。至宋明理學,二程朱熹出入佛老,窮究理氣,把其視野投向宇宙自然,明其苦心者一定知道理學家是迫于唐末五代釋道昌明、儒學衰微、戰亂頻仍、綱常廢馳之時勢而已。其探究自然之道、自然之理,論理、論氣、論理氣關系,無非是為了更好地論證其人倫之道、人倫之理,更好地論心、論性、論心性關系,從而在理論基礎上給釋道致命一擊,并為儒學的綱常倫理尋找更深層、更堅實的理論基礎,以恢復被釋道破壞了的自古相傳的倫常秩序。羅欽順(1465-1547年)一生以程朱理學派自居,無論為官還是治學都極力恪守程朱理學的正統節操,且具有極深的學術造詣,必然熟諳此情此理,必然對二程朱熹出入佛老、窮究理氣的個中原委心領神會。羅欽順也同二程朱熹一樣言理、言氣,但其理氣觀只是其持論之根據,不是其所論之要旨。羅欽順在其積幾十年之心力反復推敲潛玩而成的主要哲學著作《困知記》中開宗明義說的就是心、性關系,并在這一核心問題上傾其畢生精力批判陸王心學、駁斥禪宗佛學、繼承和發揚了程朱理學,其論心、論性、論心性關系的心性觀也在這一過程中成為其整個哲學邏輯結構的思維重心和論證主題。
一、心論
羅欽順說:“能思者心,所思而得者性之理也。”(《困知記》卷下第四十一章,中華書局1990年點校本:凡下只注書名或篇名)認為能夠思考的東西是心,而物性之理只是心之所思,是思維要把握的東西。
羅欽順認為:“格物之義,程朱之訓明且盡矣,當為萬物無疑。人之有心,固然亦是一物,然專以格物為格此心則不可。”(《答允恕弟》乙丑夏)細推其意,無疑是把心看作萬物中之一物,是一物體而已,當屬于物質性范疇。羅欽順說:“有心必有意,心之官則思,是皆出于天命之自然,非人之所為也。”(《困知記》續卷下第五章)心與意并列而言,可見心與意不是同一個范疇。心是物質性范疇,是主體,意是心所產生的認識、意識,是精神性范疇,是作用,心與意是一體一用的關系。羅欽順認為,心是人用來進行思維活動的器官,人心這種思維器官具有意識和思維的能力。這種能力是自然所賦予的,不是人力所能做到的。
羅欽順說:“虛靈知覺,心之妙也。”(《困知記》卷上第五章)又說:“人心之神,無所不通,謂之圣亦可也。惟其無所不通,故能推見事物之數,究知事物之理。物理既得,夫復何疑?若于形跡之粗,必欲一一致察,則雖圣人亦有未易能矣。玩其辭,詳其義,可見能通之妙,乃此心之神;而所通之理,是乃所謂道也。若認精神以為道,則錯矣。”(《困知記》續卷下第六章)在這里,“人心之神”指人心的精神作用,也就是我們所說的心在運作過程中的認識能力,它能夠進行邏輯的抽象和推理,從而認識事物的必然性(事物之數)和事物的規律性(事物之理)。他認為要認識事物運動之定數(必然性)和事物運動之道理(規律性),不能憑借神秘的直觀,也不是直覺所能夠實現的,而必須依靠理論思維的分析、歸納、推理等推與究的功夫去實現,推而見客觀真理.究而知客觀真理,從而較為正確地說明了思維活動在認識客觀規律過程中的作用,進一步說明了心是思維的器官,是物質性的范疇。但這種人心的精神作用與心范疇的內涵本身還只是作用與主體的關系,這種體用關系不能顛倒,也不能混而為一,“若認精神以為道,則錯矣。”(《困知記》續卷下第六章)
羅欽順把心當作儲存知識的場所,他說:“心也者,人之神明,而理之存主處也。”(《答允恕弟》乙丑夏)并認為:“天地之變化,萬古自如,人心之變化,與生俱生,則亦與生俱盡。”(《困知記》續卷下第四章)他顯然不同意陸王心學把心作為永恒的精神本體,他說:“謂其常住不滅,無是理也。”(《困知記》續卷下第四章)羅欽順認為于宙的運動變化是永恒的、無限的,而個人生活是有限的,人心的運動也是有限的。他看到了個人認識能力的非至上性。陸王心學把心作為宇宙萬物的形而上的東西,視之為宇宙世界的精神本體和本源。羅欽順卻認為心只是一個特殊的物質,不是宇宙之精神本體和本源,而其精神作用之意受生命運動的制約,是非至上的、有限的,更不能作為宇宙的本體和本源。宇宙的本體和本源只能是氣。
二、性論
羅欽順在《困知記》里說:“《六經》之中,言心自帝舜始,言性自成湯始。舜之四言未嘗及性。性固在其中矣。至湯始明言之曰:‘睢皇上帝,降衷于下民,若有恒性,克綏厥猷,惟后。’孔子言之加詳,曰:‘一陰一陽之謂道,繼之者善也,成之者性也。仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。’又曰:‘性相近’。子思述之,則曰:‘天命之謂性,率性之謂道。’孟子祖之,則曰:‘性善’。凡古圣賢之言性,不過如此。自告子而下,初無灼然之見,類皆想象以為言,其言益多,其合于圣賢者殊寡,卒未有能定于一者。及宋,程、張、朱子出,始別白而言之,孰為天命之性,孰為氣質之性,參之孔孟,驗之人情,其說于是乎大備矣。然一性而兩名,雖曰‘二之則不是’,而一之又未能也,學者之惑,終莫之解,則紛紛之論,至今不絕于天下,亦奚怪哉!”(《困知記》卷上第十四章)羅欽順這一段文字把歷史上關于“性”范疇的定義或描述按先后順序大致勾勒了出來。說“性”范疇的內涵在帝舜時就已經有所體認了,到成湯時,便有了“性”這一名稱,中經孑孔、子思、孟子的傳述,到宋明理學的二程、張載、朱熹時,關于“性”的學說就已經很完備了,指出人性有天命之性和氣質之性的區別。
在羅欽順哲學邏輯結構中,對“性”范疇有兩個規定。其一是指道心,是指精微純一的形上光明之本體,是指化生宇宙萬物的精神本體和本源。其二是指人這一宇宙萬物之特殊物體存在之理,是指人及人之行為中所體現出來的生理、心理、事理、情理、倫理、道理,是指人之作為人類及作為生命個體運作交往的規律準則、倫常秩序和道德規范。
我們先來論述羅欽順性范疇的第一義。羅欽順說:“道心,性也。”(《困知記》卷上第四章)又說:“道心,性也,性為體。”(《答林正郎貞孚》乙
亥秋)還說:“道心,性也,性者道之體。”(《答黃筠溪亞卿》)羅欽順說:“道心,‘寂然不動’者也,至精之體不可見,故微。”(《困知記》卷上第三章)又說:“精微純一,性之真也。”(《困知記》卷上第五章)這種寂然不動,精微純一的至精本體,就是性范疇的真實意蘊。羅欽順認為人們用體認的工夫可以達到知性的境界,“灼見其直上直下,真如一物之在吾目。”(《困知記》卷上第二十一章)又說:“斯可謂之知性也已。宴宴焉,戒懼以終之,庶無負子思子所以垂教之深意乎!”(《困知記》卷上第二十一章)羅欽順一再強調知性的重要性,認為達到這種知性的哲學慧境時,性這一形上光明之本體,便灼然見于目前,這與他前面所說的性作為至精之體不可見,似乎構成了思想上的矛盾。按照羅欽順哲學思想來解釋,性這個本體是超認識的,是不可見的,因為其不可見,所以至為精微,至為純一。但從方法和工夫上說,“性”這一本體可以憑借精湛的體認工夫而呈現出來,所以又是明白可見的。
我們再來分析羅欽順性范疇的第二義。羅欽順說:“夫心者,人之神明,性者,人之生理。理之所在謂之心,心之所有謂之性,不可混而為一也。”(《困知記》卷上第一章)羅欽順認為,性就是人的生理。他又運用其“理一分殊”的理論,認為天地萬物總有一個基本的規律,是謂“理一”,天地萬物又各有其自身運作的特殊規律,是謂“分殊”,人既是萬物之一物,當然有其自身相對于整個宇宙而言的“分殊”之理,這一分殊的理就是人的生理,也即性范疇。“理之所在謂之心,心之所有謂之性”,(《困知記》卷上第一章)心是理的存儲之所,性是心所存有之物。在羅欽順那里,性即是理!羅欽順本著其傳統的儒學立場,認為:“性之理,一而已矣。名其德,則有四焉。以其渾然無間也,名之曰仁;以其燦然有條也,名之曰禮;以其截然有止也,名之曰義;以其判然有別也,名之曰智。凡其燦然截然判然者,皆不出于渾然之中,此仁之所以包四德,而為性之全體也。截然者,即其燦然之不可移者也;判然者,即其截然之不可亂者也。名雖有四,其實一也。然其所以如是之渾然燦然截然判然。莫非自然而然,不假纖毫安排布置之力,此其所以為性命之理也。”(《困知記》續卷上第四十六章)這仁、義、禮、智四德,就是羅欽順所說的人之性、人之生理的具體表征,是性范疇之第二義,是作為人之行為交往的倫常秩序、道德規范之具體意蘊的集中體現。
宋明理學家言性,將性分為“天地之性”和“氣質之性”,這雖能把道理說得透徹,卻終不能歸一,困惑眾多學者。羅欽順是怎樣解決這“雖日‘二之則不是’,而一之又未能”(《困知記》卷上第十四章)的難題呢?他運用“理一分殊”的理論來闡釋這“性”范疇,說:“性之所以難言者,只為理字難明,往之為氣字之所妨礙耳。‘天地之性’,‘氣質之性’,宋諸君子始有此言,自知性者觀之,固可默識,在初學者觀之,有能免于鶻突者幾希。何也?夫性一而已矣,茍如張子所言‘氣質之性,君子有弗性’,不幾于二之乎?此一性而兩名,仆所以疑其詞之未瑩也。若以理一分殊言性,較似分明,學者較易于體認,且與諸君子大意亦未嘗不合也。”(《答林正郎貞孚》乙亥秋)羅欽順又說:“理一分殊四字,本程子論《西銘》之言,其言至簡,而推之天下之理,無所不盡。在天固然,在人亦然,在物亦然;在一身則然,在一家亦然,在天下亦然;在一歲則然,在一日亦然,在萬古亦然。持此以論性,自不須立天命、氣質之兩名,粲然其如視諸掌矣。”(《困知記》卷上第十九章)可見,羅欽順不同意程、張、朱熹的天命之性和氣質之性的提法。羅欽順認性為理,其性論就其第二義來說與其理論在邏輯上是一致的,是前后一貫的,性論是其宇宙之理論在人生界的再現,如羅欽順所說:“理一便是天地之性,分殊便是氣質之性。”(《答陸黃門浚明》戊戌秋)
羅欽順認為佛教是“有見于心,無見于性”,(《困知記》卷上第五章)認為佛教禪宗是以“知覺”,“虛靈知覺”為性,他針對這種佛教性論提出了尖銳的批評。如他說:“佛氏之所謂性,覺而已矣。其所謂覺,不出乎見聞知覺而已矣。然又有謂‘法離見聞覺知’者,豈見聞知覺之外別有所謂覺邪?良由迷悟之不同爾。后來,其徒之桀黠者,因而造妖捏怪,百般作弄,神出鬼沒,以呈其伎倆,而聳動人之聽聞。只為眾人皆在迷中,不妨東說西說,謂莫能與之明辨也。”(《困知記》續卷上第二章)又說:“然則佛氏之所謂性,不亦明甚矣乎!彼明以知覺為性,始終不知性之為理,乃欲強合于吾儒以為一道,如之何其可合也!”(《困知記》續卷上第四章)“蓋以知覺為性,其窒礙必至于此。若吾儒所見,則凡賦形于兩間者,同一陰陽之氣以成形,同一陰陽之理以為性,有知無知,無非出于一本。”(《困知記》續卷上第十一章)“但以靈覺為性,淺陋殊不能無疑。記中于此論之最詳。”(《復張甬川少宰》戊戌春)從這些關于佛教性論的言語看,羅欽順認為佛教是以知覺為性,而且此知覺不出乎見聞知覺,他認為佛教看不到性之作為性的根本義旨,其性論淺陋無疑,不能與“吾儒”視為一道,相提而并論。
三、人心、道心之辨
羅欽順為闡明他的心、性之學,還引用了“人心”、“道心”兩個范疇。人心、道心源出于《尚書?大禹漠》所說的“人心惟危,道心惟微,惟精惟一,允執厥中”四句話。朱熹在《中庸章句》序中,把它視作歷代相傳的道統。因為它包含一整套完整的高深哲理,既可透顯其精深,又可展示其博大,所以朱熹把如此重要、如此博大精深的哲理意蘊定為中國文化思想的中心,作為中國幾千年遞相沿傳的道統,是十分恰當的。王陽明雖然竭力反對朱熹學說,但對朱熹所確立的這種道統觀念也是完全同意的,并沒有什么批評。羅欽順以程朱派自居,雖在理氣觀上對程朱學說有所修正和改造,但對朱熹所確立的這種道統觀念也是竭力發揚而光大之。
羅欽順通過人心、道心之辨來闡釋其心、性之學,他說:“道心,性也,性者道之體。人心,情也,情者道之用。其體一而已矣,用則有千變萬化之殊,然而莫非道也。此理甚明,此說從來不易。”(《答黃筠溪亞卿》)羅欽順之“人心道心之辨”即是其“心性之辨”。道心、性是道的本體,人心、心是道的作用,道心與人心,性與心是一種體用關系,道心、性作為體只有一個,而人心、心作為用則是千變萬化的。“道心,性也。人心,情也。心一也,而兩言之者,動靜之分,體用之別也。凡靜以制動則吉,動而迷復則兇。”(《困知記》卷上第四章)羅欽順在解釋“人心惟危,道心惟微,惟精惟一,允執厥中”時說:“道心,‘寂然不動’者也,至精之體不可見,故微;人心,‘感而遂通’者也,至變之用不可測,故危。”(《困知記》卷上第三章)羅欽順又說:“‘惟精’,所以審其幾也。‘惟一’,所以存其誠也。‘允執厥中’,‘從心所欲不逾矩’也,圣神之能事也。”
(《困知記》卷上第四章)還說:“圣人之言殆無所不盡也,‘惟精’是隨時省察工夫,就人心而言;‘惟一’是平日存養工夫,就道心而言。”(《答陳靜齋都憲》丙申冬)這中庸之道、不逾之矩、允執之中就是寂然不動的“道心”,就屬于作為至精之本體,又作為“人之生理”的性范疇。
在羅欽順看來,既然人心、道心的心性關系是體用、本末、動靜的關系,那么就還存在著一個“已發”和“未發”的問題。道心、性是未發;人心、心是已發。羅欽順對那種認為人心、道心皆是已發的觀點提出了批評。如他在一封回信中說:“承諭以人心道心之疑,具悉尊旨。然生之認道心為未發,非欲與朱子異也。蓋潛心體認,為日久矣,于是證以《中庸》之說,其理甚明。若人心道心一概作已發看,是為語用而遺體。”(《答陳靜齋都憲》丙申冬)羅欽順說,若一概作已發看,是語用而遺體。從體用關系上來說,人心是用,道心是體,一概作已發看則是說了人心而遺失了道心。
我們再回頭推衍羅欽順哲學思想中對“惟精惟一,允執厥中”的“中”字當作何解。羅欽順在另一回信中說:“今得高論為之發明,殆非小補。所云:‘《中庸》言喜怒哀樂之未發,則直謂之中。言既發則必加中節而后謂之和。此無他,氣用事與不用事之辨也。’此數言者尤為切當。明乎斯義,則區區之說自無可疑者矣。”(《答陳侍御國祥》丁酉春)來信指出,《中庸》言未發謂中,言既發則必加中節而后謂之和。羅欽順非常贊同這種觀點,評價很高,可見羅欽順把和理解為人心之已發而中于節者,把中理解為未發之道心。如此,“惟精惟一,允執厥中”則是審其幾,存其誠,允執此道心,允執此性、此理、此“形上光明之本體”。
羅欽順以理學家自居,但理氣觀只是其持論之根據,而不是其所論之要旨,其論旨當為“心性之辨”,當為“人心道心之辨”。羅欽順說:“人心道心之辨,仆于此用工最深.竊頗自信。朋友間往往疑信相半,只為舊說橫在胸中。”(《答陳侍御國祥》丁酉春)又說:“仆嘗謂:‘人心道心之辨明,然后大本可得而立。’斯誠講學第一義。”(《答陳侍御國祥》丁酉春)他把“人心道心之辨”定為講學第一義,并承認自己一生窮究深研,在人心、道心上下功夫最多,認為如果說明了人心、道心這個道理,便可立其大本。由此可見,人心、道心的心性之辨在羅欽順哲學邏輯結構中占居核心地位。他說:“就將所論人心道心四言,朝暮之間潛心體認,功深力到,自當見得分曉,切不可著一毫安排布置之私。所見果親,則凡今日之所疑者,皆將煥然冰釋,而無事于多辨矣。”(《答齊一誠秀才書》)
四、心、性關系
在宋明理學中,心、性關系與理、氣關系一樣是一個很難表述的問題。論其大本,理與氣是一對最基本的范疇,對理、氣關系的論述是其哲學邏輯結構最基礎的命題,第一命題;心、性范疇及心、性關系相對來說則是人生界相對于宇宙界而言的分支。論其分量,在宋明理學中,心、性范疇及心性關系遠比理、氣范疇及理氣關系重要得多。程朱言理、氣,也大言心、性,而陸王更是高談心、性之學。心、性之學是程朱陸王探討的一個共同中心論題,有時稱宋明理學為心、性之學,其原因就在于此。
羅欽順認為:“孔子教人,莫非存心養性之事,然未嘗明言之也,孟子則明言之矣。夫心者,人之神明,性者,人之生理。理之所在謂之心,心之所有謂之性,不可混而為一也。《虞書》曰:‘人心惟危,道心惟微。’《論語》曰:‘從心所欲不逾距。’又曰:‘其心三月不違仁。’《孟子》曰:‘君子所性,仁義禮智根于心。’此心性之辨也。二者初不相離,而實不容相混。精之又精,乃見其真。其或認心以為性.真所謂‘差毫厘而謬千里’者也。”(《困知記》卷上第一章)這一段文字說明心性關系自孔子、孟子開始便是儒家學說所討論的主要問題,說孔夫子教育人們,不外乎是存心養性之事。羅欽順特用“莫非”一詞來強調心性關系在儒家學說的重要性。從這一段文字所處的位置而言,心性關系在羅欽順哲學邏輯結構中也處于至為重要的地位,是其整個哲學思想的大旨之所在。
羅欽順認為,心與性雖然是初不相離,但心與性實難為一。既然如此,那么應當視心、性為二物了。羅欽順的回答是否定的。他說:“謂之兩物又非兩物,謂之一物又非一物。除卻心即無性,除卻性即無心。”(《困知記》卷下第五十二章)心、性不是一物,但卻又是“初不相離”,除了心,就沒有性,除了性,也就沒有心,說它們是兩物,卻又不是兩物。心與性這種相互依存又相互區別的復雜關系困擾著許多宋明理學家。羅欽順也發出了“蓋心性至為難明,是以多誤”(《困知記》卷下第五十二章)的感嘆。他最后說:“惟就一物中剖分得兩物出來,方可謂之知性。”(《困知記》卷下第五十二章)認為心性關系雖然初不相離,相互依存,但其差別是明顯的,必須從一物中剖分出兩物來。他與所有正統儒家一樣,主張把心、性分開,才能看到心與性這種本質的差別,才能算是“知性”。羅欽順說:“蓋虛靈知覺,心之妙也。精微純一,性之真也。”(《困知記》卷上第五章)在他看來,虛靈知覺是心的運作妙用,而精微純一的形上光明之本體是性范疇的真實意蘊,性與心的關系是本體和作用的關系,性是體,心是用,性是形而上者,而心是形而下者。如他說:“道心,性也。人心,情也。心一也,而兩言之者,動靜之分,體用之別也。”(《困知記》卷上第四章)這一節言心性關系最為明白,“心一也,而兩言之者”,正是他“惟就一物中剖分得兩物出來”的意思。只有這樣剖分,才能看到性與心之間一靜一動、一體一用的本質區別,才可以算是“知性”,才可以算是認識了形上光明之本體。在這里,作為本體的性靜正有常,而作為妙用的心變化不測。
羅欽順與明代中葉陳獻章、王陽明、湛若水同時,當時心學開始興盛,而程朱理學開始衰落。羅欽順認為陸王心學在明代中葉的興盛和迅速流傳,必將造成嚴重的思想混亂,導致學風日頹,士風日下。如他在回復其弟羅允恕的信中說,自從陸九淵心學產生以來,“其流禍迄今益甚。士之好高欲速者,更猖迭和,乎有丕變于夷之勢,世道升降,必將由之。余惟恐攻之不力,而無以塞其源。”(《答允恕弟》乙丑夏)羅欽順在心性關系上。一貫反對陸王心學“心即理”、“心即性”這種混淆心性關系的說法,也一貫駁斥佛教禪宗融性子心的思想。“釋氏之‘明心見性’,與吾儒之‘盡心知性’,相似而實不同。”(《困知記》卷上第五章)“釋氏之學,大抵有見于心,無見于性。”(《困知記》卷上第五章)“象山之學,吾見得分明是禪,弟則以為‘似禪’。似之為言,仿佛之謂也。以余觀之,佛氏有見于心,無見于性,象山亦然。其所謂至道,皆不出乎靈覺之妙,初不見其有少異也,豈直仿佛云乎!”(《答允恕弟》乙丑夏)羅欽順認為,陸王心學究其實質就是佛教禪學,在心性關系上都是消融性以歸之于心,只看到心,而看不到性。他說陸九淵談心滔滔不絕,毫無疲倦,而言性之處卻很少,遇人發問,不得不說時,卻支支吾吾籠罩過去,并不實答。這種大言心少言性的境況與佛教禪宗“有見于心,無見于性”如出一轍,正相吻合。因此,羅欽順多次指斥陸王心學是禪宗,是假儒真佛。禪宗也言及佛性,然禪宗言性是指虛靈知覺,歸根結蒂,仍是說的一個心字,最終還是把性范疇消融在心范疇之中,與陸九淵、王陽明一樣,建立的哲學體系,還是以心為本體的心一元論。
篇8
“仁心”。從恩格斯關于在人身上自然界獲得了自我意識的觀點出發來理解“為天地立心”,就不能用只是宋明理學的代表人物所認可的“仁心”去為天地立心,而應該立足于人類已經取得的自然科學特別是人類生態學和人本生態觀的成果去揭示作為“自然界的自我意識”的“天地之心”的豐富內涵,并且特別要深入認識人類生態系統的對象性、主體性和生成性。
[關鍵詞]為天地立心;人本生態觀;對象性;主體性;生成性
[中圖分類號]B21 [文獻標識碼]A [文章編號]1008-0139(2011)03-0106-6
盡管中國古代哲學中的“天”或“天地”概念與西方近代以來的“自然”概念不能等同,但是可以說,那時的人們是把自然與人的關系也泛泛地包括在天人關系中的。就天人關系來說,其中天地與人心即自然界與人的意識的關系則處在核心的地位,具有特殊的意義。在中國源遠流長的傳統哲學中,早就有對“人為天地之心”或“人為天地立心”的各種觀念,表達了關于人與自然相互關系的深入思考和幽眇寄托。這些觀念直接影響了人們對天地自然的態度,并據此生發出關于不同人格境界的觀念。
21世紀是生態學的世紀,同時又被視為管理學的世紀。為回應這個世紀性的趨勢,筆者提出了以的人本生態觀為指導的生態化管理的理念。毫無疑義,這種與生態文明建設相適應的管理理念,就理所當然地要求作為管理主體的人的意識必須提升到恩格斯說的“自然界的自我意識”的水平。為此,有必要對中國古代的“天地之心”說進行梳理,正確理解人“為天地立心”的應有內涵,使作為“天地之心”的“人心”真正成為天地自然的自我意識而不僅僅是那種自外于自然的人的自我意識,從而真正擺正人在自然界中的地位。只有這樣,才能深刻認識管理生態化的重要意義,也才能正確進行生態化管理的理論建設和實踐探索。
一、對“天地之心”的早期感悟的兩點洞見
關于“天地之心”的觀念,早在先秦的哲學思維中就已經很豐富和明確了。
孟子說:“盡其心者,知其性也。知其性,則知天矣。存其心,養其性,所以事天也。”明確指出“盡心”可以“知天”,人的心是能夠與天相通的。孟子認為通過寡欲養心,使其充盈“浩然之氣”,于是“萬物皆備于我”,達到萬物與我合一的境界。
對“天地之心”的明確指稱在《易傳》中就有了,其《復?彖》說“復,其見天地之心乎!”就認為天地是有心存在的,事物的交互作用、循環往復就是天地之心所使然。
荀子則論述了人心與天的關系,其《天論》說,人心乃是人的利欲好惡之心。人由氣而成形,“形聚而神生,好惡、喜怒、哀樂藏焉,夫是之謂天情。”這是說人心來之于天。《王制》則說:“水火有氣而無生,草木有生而無知,禽獸有知而無義,人有氣有生有知亦且有義,故最為天下貴也。”這就更加明確地說明了天地自然與人之間的生成性聯系,并指出了人的特殊地位。而所謂“知”和“義”都關乎人心,因此實際上也指出了人心生成于天地自然的道理。對人和人心與天地自然之間的生成性聯系的揭示非常重要,因為正是由于這種聯系,人心才能夠通于天地。
老子可能最早意識到人心與自然之道之間的錯位和對立,提出了“虛其心”而體其道、“法自然”的要求。同樣對人心與自然之道相悖謬深為焦灼的莊子也提出“心齋”論,要求人心“虛而待物”,達到“無心得而鬼神服”之境,以消彌人心來實現與天地自然之道的同一。老莊著眼于現實的人心與天地自然之道的疏離和對立而高揚自然之道,卻沒有認識到人作為天地自然的生成物而與自然具有內在同一性的可能,其對自然之道的解悟,實際上是回復到前人類的靜止的自然狀態。他們雖然也不同程度地看到了自然與人的生成性關聯,但是不懂得天地自然的生成和進化的本質,更不懂得人在實現自然的生成之道的進程中的主體地位和自覺能動的作用。
董仲舒的人心“副于天心”因而天人感應的觀點,把天地自然與人事人心的某些內在的同一性現象簡單化和絕對化,把天加以擬人化,實際上是把封建禮教一套“人心”標榜為“天理”,使之成為人世的政教權威。這種以“天”的名義為人世立法,把天人關系純粹政教化的思維模式后來長期成為維護封建專制的“天經地義”的意識形態。
魏晉時代,紛亂險惡的社會現實―方面在“任自然”的追求中把人引向自然,這個自然是與人世和人心對立的;另一方面又特別關注社會人心本身,如到王弼提出“天地以無為心”,而圣人(即所謂“大制者“)當“以天下之心為心”,即以天下百姓之心為心。在人世、人心與天地自然的對立中,人們急切關注的是對人心的撫慰和安頓,而對“天地之心”及其與人心的關系變得淡漠了。但是,對人心的認可依然仰賴于對“天地之心”的確認。
從先秦到魏晉的上述觀點,至少有兩點洞見值得今人珍視:第一,明確肯定了人和人心與天地自然之間的生成性聯系,從生成論的角度指出了兩者之間具有內在同一性的原因,因而也就解釋了“人心”能夠與“天地之心”相通并真正成為或“立”為“天地之心”的真實根源和生命基礎;第二,不管出于何種動機,也無論通過什么路徑,都意識到或者明確指出了“天地之心”對于“人心”的本原性和至上性,即使本來張揚的是某種人心也要打出“天理”或“天道”的旗號,這無疑表現了對于天地自然的無比敬畏和遵從。這兩點,對于我們今天認識人心與“天地之心”的關系依然具有原則性的啟示意義。
二、宋明理學中“天地之心”論的深化和局限
魏晉以后的漢唐時代,人們在“天命”的旗號下創造歷史的能動性極度張揚,人心空前擴張,對“人心”與“天地之心”的關系的思考相對沉寂。到了宋明兩代,由于人欲的過度膨脹引發的社會和精神危機,這個問題又突出地擺在了思想家們的面前。延續幾百年的討論為我們留下了許多珍貴的思維成果。
宋代的張載認為“天無心,心都在人之心。”“天惟運動一氣,鼓萬物而生,無心以恤物”。他批判佛教心法起滅天地之意對人心的能動性的無限夸大,但也認為“大其心能體天下之物”。“心大則百物皆通,心小則百物皆病。”張載由此發出了“為天地立心”的宏愿。這種對人心的超越能力的認同和高揚,無疑開啟了人心終將成為天地自然的自我意識的通道。他的氣一元論認為宇宙萬物都是一氣,人和其他的物都是同一個偉大身軀的一部分。基于此,人就可以而且應該為天地立心。至此,天人合―才不再只是一個混沌的本體認知和美好愿景,而走向了通過人的主體能動,陛使之得以自覺實現的過程。他說“大其心能體天下之物”而“與百物皆通”,這表明為天地所立之心應是“體天下之物”而成的心,而不是以主觀的人心為天地之心。張載之后的程朱等人討論的
重點就放在為天地“立”什么樣的心上了。
朱熹關于“心”的思想極為豐富,也頗多深刻精辟之處。他發揮了程頤的觀點,以天地之心為天地生物之心,這種生物之心乃是字宙萬物和天下之心包括人心存在的總根源,即把天地之心作為萬物產生的本原。朱熹闡述程頤“一陽復于下,乃天地生物之心”一段時說:“蓋謂天地以生生為德,自‘元亨利貞’,乃生物之心也。”又說“元亨利貞便是天地之心”,“天地以生物為心者也,而人物之生又各得天地之心以為心者也。”又說“吾之心,即天地之心”“蓋謂仁者,天地生物之心,而人物所得以為心,”朱熹說“生物便是天之心”,但這個心是無意志、不自覺的,因此他把“天地之心”稱為“無心之心”。“天下之物,至微至細者,亦皆有心,只是有無知覺處爾。且如一草―木,向陽處便生,向陰處便憔悴,他有個好惡在里。至大而天地,生出許多萬物,運轉流通,不停一息,四時晝夜,恰似有個物事積踏恁地去。天地自有個無心之心。”又說:“教化皆是人做,此所謂‘人者天地之心也’。”“人者,天地之心。沒這人時,天地便沒人管。”朱熹強調了人心應以天地之心以為心,并以“生物之心”為其基本內涵。人心作為天地之心也就使人成為天地自然的管理者了。
后來的陸九淵提出:“宇宙便是吾心,吾心便是宇宙。”這種心為宇宙本體的觀點影響很大,如魏了翁也主張心為天地萬物的主宰,以致影響到明代的心學。明代心學的開創者陳獻章就主張宇宙在我,后來的湛若水提出宇宙之內一心爾,一直到作為明代心學集大成者的王守仁聲言“心者,天地萬物之主也。心即天,言心則天地萬物皆舉矣。”
王守仁說:“心也者,吾所得于天之理也,無間于天人,無分于古今,茍盡吾心以求焉,則不中不遠矣。”他把朱熹訴之于天的“理”也歸之于人的“心”,認為“心外無物,心外無事,心外無理”。他強調“人心與天地一體”進一步他又把心的本體歸于“良知”,說“心之虛靈明覺即本然之良知也”。他說:“心之本體即是天理也,天理之昭明靈覺,所謂良知也。”結果把“天理”也歸于“良知”。“天理”成了心之條理,良知成了心之本體,亦即宇宙本體。至于所謂“良知”的內涵,可以從他對“大人”“小人”的闡述看出。他說:“大人者,以天地萬物為一體者也。其視天下猶一家,中國猶_人焉。若夫間形骸而分爾我者,小人矣。大人之能以天地萬物為一體也,非意之也,其心之仁,本若是其與天地萬物而為一也。”“明明德者,立其天地萬物一體之體也;親民者,達其天地萬物一體之用也。”
朱熹和王守仁的觀點,除了在人心與天地之心的關系上有本體論上的分歧外,其內涵都是基于“生物之心”和“萬物一體”的一個“仁”字。他們把先秦儒家就有的民胞物與的觀念發揚光大,把天人合一的實現訴諸于“天理”和“良知”共有的仁心,希望以此仁心的能動精神去改善世界。他們把對“天地之心”的探討深化了,精細化了,但是僅僅將其內涵歸于一個“仁”字。從生態倫理學的角度看,他們的觀點今天當然還有其不可小視的意義,但是畢竟顯得空洞而蒼白,表現出同樣不可小視的局限:第一,這種“天地之心”的觀念實際上還是儒家“人心”說(如孔子的“仁者愛人”、“已所不欲,勿施于人’,孟子的“惻隱之心”以及“仁者生人’之類)推己及物的擴展。其致思路向仍然局限在傳統的道德倫理的范圍內。第二,雖然也有對于萬物一體的哲思做基礎,但是畢竟沒有自然科學特別是人類生態學的知識支撐,因此缺乏實證的說服力和內在的精神力量。第三,這樣一來,也就必然把應當為天地而立的心的內涵簡單化和貧乏化了。
三、從“自然界的自我意識”的高度“為天地立心”
晚年的恩格斯以其大自然觀充實和發展了馬克思的唯物史觀。他在《自然辯證法》中概述自然界的自我生成過程時指出,生物進化到脊椎動物后,“在這些脊椎動物中,最后又發展出這樣一種脊椎動物,在它身上自然界獲得了自我意識,這就是人。”這就是說,自然界是通過人而獲得自我意識的,但是這種自我意識本來就是自然界自我生成的,而不是人為自然界確立的。與恩格斯的觀點比較起來可以看到,說“人為天地之心”比起說人“為天地立心”無疑要科學得多,因為后者似乎模糊了天地之心乃是天地自我生成的這層意思。
但是,由于人心并不一定就是天地之心,而且漫長的歷史已經證明人心要真正成為天地之心,像馮友蘭說的那樣上升到“天地境界”的人格,確實需要人自己的非凡努力,包括不斷戰勝自己各種惡性膨脹的欲望,而“為天地立心”的命題恰好表達了這層意味。特別是在今天人與自然之間的生態矛盾空前尖銳的情況下,強調人為天地自然立心的自覺主動精神很有必要。從恩格斯關于人是自然界的自我意識的觀點出發來理解“為天地立心”這個命題,最重要的就是要明白,我們并不是要像宋明理學的代表人物那樣用他們所認可的“人心”即“仁心”去為天地立心,而應該立足于人類已經取得的自然科學特別是人類生態學和人本生態觀的成果去揭示作為“自然界的自我意識”的“天地之心”的基本內涵。我們人類只有永懷對于自然界的敬畏虔誠之心,努力體認自然界自我生成的規律,懂得自己在這個自然之道的運行和實現中的地位和責任,只有使人心真正成為“自然界的自我意識”,才有資格說自己真的為天地立心了。
對此,恩格斯的下面這段話很有啟示意義。他說:“隨同人,我們進入了歷史。動物也有一部歷史,即動物的起源和逐漸發展到今天這樣的狀態這樣的歷史。但是這部歷史對它們來說是被創造出來的,如果說它們自己也參與了創造,那也是無意識的。相反地,人離開狹義的動物越遠,就越是有意識地自己創造自己的歷史,未能預見的作用,未能控制的力量對這一歷史的影響就越小,歷史的結果和預定的目的就越加符合。”人類今天面臨的生態問題說明,我們離開狹義的動物還不夠遠,我們的某些行徑比起動物來甚至應該深為愧疚,那些未能預見的作用和未能控制的力量對人類歷史的影響還非常大。擺在我們面前的問題是,我們越是自以為是地有意識地創造歷史,卻往往陷入恩格斯說的“一線勝利二線失敗”的怪圈,歷史的結果和預定的目的并不符合,我們對大自然的每一次得意洋洋的征服帶來的卻往往是大自然的無情報復。這個嚴峻的事實說明,時至今日,盡管人類的意識已經高度發展了,但是還遠遠沒有達到自然界的自我意識的水平。不僅如此,而且由于人的自外于自然的自我意識的惡性膨脹,很多人甚至不削于成為“自然界的自我意識”。正如恩格斯說的,人的頭腦是地球上最美麗的精華,人確實是天地之心,但是這個“心”要真正成為“自然界的自我意識”水平上“天地之心”,不是單憑善良的主觀愿望就能做到的。
今天仍然有論者認為“人以愛心對待人與萬物,完成自然界的‘生生之道’,就是為天地‘立心’”;“其核心是“人心之仁”,即“不斷培養、完善自己的仁性,成為真正的德性主體,實現自
然界的生之目的。這就是‘為天地立心’的真正涵義”。這還是把此“心”局限在道德范圍之內,似乎需要的只是生態倫理觀念的培養和確立,而這顯然遠不是“自然界的自我意識”所應有的內涵的全部。生態倫理觀念的重要性勿容質疑,甚至可以說具有根本的意義,但是它還不是“自然界的自我意識”的全部內容。
那么,提升到“自然界的自我意識”水平上的“天地之心”應該包括哪些基本的內容呢?對此,筆者在《人本生態觀與管理的生態化》中已有所論述。這里還需要強調的是對于人類生態系統的對象性、主體性和生成性三個問題。
第一,作為“自然界的自我意識”的“天地之心”,必須清醒地意識到人與自然之間(嚴格地說是人的內部自然與人的外部自然之間)的對象性關聯。關于感性事物無不是對象性存在,即都是互為對象相互依存的觀點,是馬克思的重要思想。自然界之所以能夠成為人的對象,是因為存在著“自然界的人的本質”。以這種對象性存在為前提,通過微進化和宏進化,人才得以在自然界中生成,或者說自然界才得以生成為人。正是由于這種對象性,自然界才是人類須臾不可離開的物質母體(或馬克思說的“無機的身體”)和精神家園。由于這種對象性,人是自然存在物,自然也是人的存在物,也就可以說自然就是人。因此,對自然生態的危害就是對人的危害。我們對自然界的敬畏之心和仁愛之心,應該首先是出于對這種對象性存在的真切體認而生成的自我意識。
第二,作為“自然界的自我意識”的“天地之心”,必須認識到關于人類生態系統的主體性。近代以來,在經過主體性神話的迷狂之后人們又感嘆主體性的黃昏,甚至宣告主體性的消亡。說到底,從“神話”到“黃昏”都是把人的主體性自我中心化的結果。所謂“自然界的自我意識”,正是自然界主體化的結果。通過人,自然界才生成了自己的主體性,才從自發的存在逐漸成為自為的存在。作為“自然界的自我意識”的主體性,一是不能忽視其對象性的基礎,因此不能忘記這種主體性是受著對象性制約的主體性;二是要把維護自然生態系統亦即人類生態系統的整體平衡和優化作為自為的堅定不移的目的;三是要深刻全面的認識自然界生成為人的生態運行規律,并且擔當起嚴格遵循生態規律管理人類生態系統的責任。因此不是‘‘人與自然界一起成為主體”,也不是所謂人與自然的“互主體性”或者“主體間性”,而依然是人的主體性,只不過這種主體性是自然界主體化的現實成果和集中表現罷了。高揚這樣的主體性,就必須清醒地意識到自己作為“自然界的自我意識”的生態地位,擔當起作為“自然界的自我意識”的生態理性的責任,同時也努力使自己具有作為“自然界的自我意識”的各種生態智慧和能力。
第三,作為“自然界的自我意識”的“天地之心”,必須認識到關于人類生態系統的生成性即進化的本質。盡管中國古代自然哲學和生命哲學中的生態思維已經意識到天地運行的生成性,指出過人和人心與天地自然之間的生成性聯系,但是,它們對“天人合一”境界的追求卻往往指向原始的和靜止的和諧與平衡。這種觀念在今天也還存在影響,比如把環境保護和生態建設與經濟社會的發展對立起來的某些觀點就是這樣。應該認識到,自然生態系統之所以最終成了人類生態系統,就是由于生態本來就是具有生成性的動態平衡。物質和信息的不斷變換和起落,物種的新生和消滅,生物群落的變化和遷移,乃是生態運行中的常態。正是在這種運行中,自然界才生成為人。人作為主體化的自然和生態主體的現實生成,絕不意味著這個生成過程的結束和終止,而只是把自在的生成逐步自覺化主動化的自為生成的過程。通過人的努力,一些局部地方的生態明顯改善的事實證明了這種自為生成的可能。我們需要的是把這種自覺性擴展為全人類的整體行為。
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篇9
關鍵詞:先秦道家;從心出發;治國思想;理論基點
中圖分類號:B223 文獻標識碼:A
從理論成型而論,道家的真正奠基者是老子,其后的莊子則是道家頗具影響力的思想建設者,歷史上將傳承老子與莊子思想的一批人物稱作“老莊學派”。此外,先秦時期發展道家學說的還有齊國稷下學宮的一批學者,歷史上將他們稱作“稷下黃老學派”。無論是老莊學派還是黃老學派,這些先秦道家都非常重視治心思想在治國思想中的地位和作用。
一、“心”字在古代思想中的內涵解讀
所謂“心”,在古代思想體系中基本有三義。
一是指生理意義上人體內部的一種器官,即所謂血肉之心。據《甲骨文簡明詞典》:“心,像人胸部心臟的輪廓形,即心之本字,引申之,表示人的心情。”[1]又《說文解字》云:“心,人心土藏也,在身之中,象形;博士說以為火藏,凡心之屬皆從心。”[2]這是“心”字的基本含義,也就是人體內血肉之心的生理器官。
二是指認識和思維的器官,及“知覺”“思慮”等認識功能及作用,即所謂“知覺靈明”之心。《管子?內業》說:“心者,精之所舍。”《心術》篇也說:“心,智之舍也。”這是“心”字的第二層含義,是指作為人的認知理性的思維器官。
三是指主體自身內在的道德本能及情感意識,即所謂“義理之心”“本心”“良心”,最具代表性的是孟子所說的“惻隱、是非、辭讓、羞惡”等“四端”,也稱“四心”。這是“心”字的第三層含義,是指人的主體自身的道德義理之心。
“心”字的三層含義中,尤其“知覺靈明之心”和“道德義理之心”,分別代表人的認知理性和道德理性,已引起學者的廣泛重視和關注。以上是古人對“心”認識的簡單三分法,但也有些學者的“三分法”所指內容與此略有出入。如蒙培元先生就認為:“大概言之,心有三種主要含義:一是道德之心,以孟子為代表,指人的情感心理升華而形成的道德意識,是道德理性范疇。二是理智之心,以荀子為代表,指認識事物的能力,是認知理性范疇。三是虛明靈覺之心,以佛道為代表,指虛而明的本體狀態或精神境界,是超理性的本體范疇。”[3]蒙培元所著《心靈超越與境界》有云:“中國哲學各大主流派,無論對天道的規定如何,如道家規定為自然本體,儒家規定為道德本體,但天道性心是通而為一的,是由心來實現的。心靈不僅能夠下通人事,而且能夠上達天德。這是一種縱向的自我超越。”[4]
先秦道家治國思想的出發點―― “治心”里面的“心”字,應當包含上面所述的三層含義,但其主要含義是“虛明靈覺之心,是超越理性的本體范疇”,是一種精神境界。而從心出發――也成為先秦道家治國思想體系的理論基點。
二、道家身國同治理論的回顧
老子治國主張“無為而治”。(《老子》第三十七章)老子不僅提出了“無為而治”,而且他把“治國”與“貴身”思想初步聯系起來,為后來“身國同治”的思想奠定了基礎。老子說:“故貴以身為天下,若可寄天下;愛以身為天下,若可托天下。”(《老子》第十三章)老子認為,一個理想的治者,首要在于“貴身”,不胡作妄為,這樣,大家才放心把天下的重責委任給他。“貴身”既是重視、珍惜自己的生命,如果再稍稍前進一步,就是道教養生長壽的“治身”之道。
老子“身國同治”的一個重要環節是身國同構。《老子》第五十四章云:“善建者不拔,善抱者不脫,子孫以祭祀不輟。修之于身,其德乃真;修之于家,其德乃馀;修之于鄉,其德乃長;修之于邦,其德乃豐;修之于天下,其德乃普。”河上公(因為河上公注釋老子是以黃老學思想為注文,更符合老子本義,所以成為歷代注釋老子的權威)注曰:“修道于身,愛氣養神,益壽延年。其德如是,乃為真人也。修道于家,父慈子孝,兄友弟順,夫信妻貞。其德如是,乃有余慶及于來世子孫。修道于鄉,尊敬長老,愛養幼少,教誨愚鄙。其德如是,乃無不覆及也。修道于國,則君信臣忠,仁義自生,禮樂自興,政平無私。其德如是,乃為豐厚也。人主修道于天下,不言而化,不教而治,下之應上,信如影響。其德如是,乃為普博。”作為對老子“身國同治”的一個闡釋,他揭示了以“道”修身、修家、修鄉、修國、修天下的過程。
老子“身國同構”的表述方式是通過治身來隱喻或類比治國。《老子》第七十八章云:“受國之垢,是謂社稷主;受國不祥,是為天下王。”這是用治身來隱喻治國,把“身”與“天下”本質性地關聯了起來,使身與國在“道”的透視下有了存在論意義上的同一性。這本是論治身之“道”,其要在內求于己而不外求于物。不過,這一治身之“道”卻明顯隱含著治國的原則。到此,我們確實看到老子明確提出了“身國同治”。這也是許多學者認為道家治國治身治心思想是身國同治的原因所在[5]。
要達到“身國同治”,必然“要要貴生”,要重視自己的身體,因此,先秦道家文獻《呂氏春秋》中也強調:“故曰:道之真以持身,其緒余以為國家,其土苴以治天下。”所以,該書又引用了楚王與詹子的一段對話,意在說明治國之本在于治身。“楚王問為國于詹子,詹子對曰:‘何聞為身,不聞為國。’詹子豈以國可無為哉?以為為國之本,在于為身。”此外在湯與伊尹的對話中也可見一斑:“湯問于伊尹曰:‘欲取天下,若何?’伊尹對曰:‘欲取天下,天下不可取;可取,身將先取。凡事之本,必先治身,嗇其大寶。用其新,棄其陳,腠理遂通。精氣日新,邪氣盡去,及其天年。此之謂真人。’”
但是先秦道家到此并沒有止步,而是進一步把隱而不顯的“治心”思想與“治國”和“治身”思想聯系起來,在先秦道家的治國理論體系中可以這樣表述:治心―治身―治國。在這個體系中,“心”是這個理論體系的基點,“身”是這個理論體系的中介,“國”才是這個理論體系的目標。
三、先秦道家治國的理論基點
老子說:“載營魄抱一,能無離乎?專氣致柔,能如嬰兒乎?滌除玄覽,能無疵乎?愛民治國,能無為乎?天門開合,能為雌乎?明白四達,能無知乎?”(《老子》第十章)在這里老子把“治國”和“治心”相提并論,并認為,一個健全的生活必須是形體和精神合一而不偏離。“抱一”即是抱“道”,能抱“道”,即是使肉體生活與精神生活可臻于和諧的狀況。老子重在“身心同治”,“身心同治”之后乃推其余緒而愛民治國。這是老子治國治身治心思想的最高境界。此后莊子繼承老子的學說,也充分重視“治心”在治國理論體系中的重要地位,并把“心”稱之為“靈臺”“靈府”,等等。故莊子主張心齋、坐忘,使心之虛、靜、明的本性呈現出來,這即是道的呈現。
在治國、治身、治心思想體系中,稷下道家尤其重視“治心”,認為:心治則身治,身治則國治。《管子》作者說: “心無他圖,正心在中,萬物得度……何謂解之?在于心安。我心治,官乃治;我心安,官乃安。治之者心也,安之者心也。心以藏心,心之中又有心焉。彼心之心,音以先言。音然后形,形然后言。言然后使,使然后治。”“心安,是國安也。心治,是國治也。治也者,心也。安也者,心也。”到了戰國稷下道家這里,治國思想的體系的理論基點――治心思想正式形成。
《呂氏春秋》繼承了先秦道家一貫的治國治身治心思想,認為心治則身治,身治則國治。讓我們先看《呂氏春秋?貴生》里的一段話:“圣人深慮天下,莫貴于生。夫耳目鼻口,生之役也。耳雖欲聲,目雖欲色,鼻雖欲芬香,口雖欲滋味,害于生則止。在四官者不欲,利于生者則弗為。由此觀之耳目鼻口不得擅行,必有所制。譬之若官職不得擅為,必有所制。此貴生之術也。”仔細分析上文不難發現,治國必先治身,而身體的耳目鼻口,也應該有所制約,文章雖沒有明確提出“治心”的概念,但是人的身體之耳目鼻口要有所制約,必然牽涉各種各樣的“欲”的制約,而制約“欲”必須從“心”出發。由此,《呂氏春秋》構建了治國思想的理論基點――治心思想。
四、結論
道家治國思想的理論基點在于治心。用儒家“內圣外王”的標準看, 治心就是為了實現“內圣”,而治國 則是為了實現“外王”。可見,無論是治國,還是治身,其理論體系的基點是治心。
司馬遷在分析道家的道治時有一段較為詳盡的評述:“道家無為,又曰無不為,其實易行,其辭難知。其術以虛無為本,以因循為用。無成執,無常行,故能究萬物之情。不為物先,不為物后,故能為萬物主。有法無法,因時為業;有度無度,因物與合。故曰‘圣人不朽,時變是守。虛者道之常也,因者君之綱’也。群臣并至,使各自明也。其實中其聲音者謂之端,實不中其聲音者謂之U。U言不聽,奸乃不生,賢不肖自分,白黑乃形。在所欲用耳,何事不成。乃合大道,混混冥冥。光耀天下,復反無名。凡人所生者神也,所托者形也。神大用則竭,形大勞則敝,形神離則死。死者不可復生,離者不可復反,故圣人重之。由是觀之,神者生之本也,形者生之具也。不先定其神,而曰‘我有以治天下’,何由哉?”[5]
司馬遷在這里強調了道家治國思想的理論基點:一是治身先治心(神), 而后養形;二是形神不離,身心合一, 身乃安康;三是治心(神)以治身,治身以治天下;四是貫穿心身國的主線是“道”。在這里,治理好天下的前提就是“定其神”,“定其神”就是堅持先治理好自己的心體,也就是把治心作為治國理論體系的基點。所以道家治國思想體系在上引段落最后的詰問中表露無遺:統治者如果心之不治,則欲望叢生,邪氣惹身,身之不治,則必知有為,造作生事,連自己的身體都不愛護珍惜,胡作非為,則天下何安?
參考文獻:
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篇10
關鍵詞:系詞;是;判斷詞
中圖分類號:H0文獻標識碼:A文章編號:1005-5312(2010)04-0038-02
關于系詞產生的年代,學界的觀點分為兩派:一派認為上古無系詞“是”,一派認為有。
一、上古無系詞
(一)一說產生于公元一世紀前后
系詞“是”產生于西漢末年或東漢初葉,即公元一世紀前后。這種說法以王力先生為代表,在學術界得到廣泛認同。
王力先生曾于1937年發表《中國文法中的系詞》,提出上古無系詞,系詞“是”直到東晉才產生。后受洪誠先生《論南北朝以前漢語中的系詞》(1957年)一文影響,于《漢語史稿》腳注中說:“我一向以為系詞始于東晉,盛于南北朝。1956年夏天,洪誠先生對我說,《論衡》里有許多系詞的例子。我因此得以修正我的結論,謹此致謝。”又于中冊正文第三章第四十一節說:“漢語真正系詞的產生,大約在公元一世紀前后,即西漢末年或東漢初葉。在王充《論衡》里已經有不少‘是’字是當系詞用的。”王力先生還指出,先秦時期的“是”字屬于指代詞。
王力先生不承認上古有系詞“是”,是因為“此必是豫讓也”(《史記?刺客列傳》)和“蔡人不知其是陳君也”(《谷梁傳?桓公六年》)等句中的“是”,“例子少到這個程度,令人懷疑是后人改寫過的。”王力先生嚴守著“例不十,法不立”的原則,肯定先秦時代的判斷句不用系詞。
王力先生在《漢語史稿》中說:“要討論系詞的產生及其發展,必須先給系詞下一個定義。系詞是在判斷句中把名詞謂語聯系于主語的詞。就漢語來說,真正的系詞只有一個‘是’字。但是我們不能說‘是’字在任何情況下都是系詞。缺乏主語的往往不是系詞;當謂語不是名詞性質的時候,謂語前面的“是”字也不是系詞。系詞這一概念是從邏輯學來的。它的任務是聯系主謂兩項,缺一不可。”自此引出諸多關于系詞“是”的問題的討論。
但此后1975年出土的秦簡中發現大量“是”字疑似系詞的句子,由此,王力先生對系詞“是”產生的年代的看法引發了一系列爭論。
認同這一說法的學者很多,其中有敖鏡浩先生曾說:“ 在戰國末年的《韓非子》約公元前年前后雖已見到系詞‘ 是’ 的初例, 但在沒有獲得進一步確證之前, 系詞“ 是” 的使用, 似暫以西漢年’公元前年―公元年起算為宜。”
(二)一說產生于西漢初年。
洪誠先生辯駁王力先生在《中國文法學初探》和《中國語法理論》認為“是”之成為系詞在第三世紀以后而萌芽于東晉的觀點,指出演變為系詞的“是”不是純粹指代詞,它有以指示表肯定的意義。并用大量語言事實列出先秦、漢、魏用“是”作系詞之例,提出“考之實際,‘是’這個系詞在西漢前期就產生了,不始于東晉”。
(三)一說產生于東漢
王力先生曾說過:“系詞在判斷句中起經常的作用,系詞句在口語里完全代替了上古的判斷句,則是中古時期的事。……在這個時期,系詞句有三大標志:第一,它擺脫了語氣詞‘也’字,‘是’成為一個必要的,而不是可有可無的系詞。……第二,系詞‘是’字可以被副詞修飾。……第三,系詞‘是’字前面加否定詞‘不’字,在口語里代替了上古的‘非’。例如:劫劫生生,輪回不絕……都由此身本不是我。(唐宗密《原人論》)余亦不是仵加之子,亦不是避難之人。(伍子胥變文乙)”
唐鈺明先生的觀點是:“‘是’字判斷句東漢已走向成熟,在唐代已經完全成熟。”
王力先生提出了三大標志,這些都是值得我們思考的。然而,實際語言的情況非常的復雜,三大標志,在很大程度上,反映在文獻語言中,經常以不平衡的狀態出現。
有一種說法:“‘是’離開了‘也’字”,也字是語氣詞。這在今天能看到的最早出現系詞“是”的出土文獻里就已經如此了。“是是餓鬼”(云夢睡虎地秦簡)“是是竹彗”(馬王堆漢墓帛書《彗星圖》)等。
“‘是’成為一個系詞,沒有一條絕對的客觀標準。王力先生曾經引用過《世說新語》中的很多例子,不過這里仍然有很多沒有“是”的判斷句。
從兩者數量的對比上,我們不能下定論說,“是”究竟是不是判斷詞,它是否“必要”。在《論衡》中系詞“是”可以被副詞修飾。《論衡》中修飾“是”的副詞,散見于各個篇章,數量大約在7個以上 。
唐鈺明先生曾經提過:“魏晉南北朝已有‘xx不是xx’格式的萌芽”。他說:“就在魏晉南北朝普遍采用‘×非是×’來取代‘×非×’之際,‘×不是×’這種新格式已悄然降臨了。”
唐鈺明還引用了魏晉南北朝時期“不是”的許多例句。其中有西晉竺法護所譯的《佛說文殊師利現寶藏經》。
洪誠先生辯駁王力先生在《中國文法學初探》和《中國語法理論》認為“是”之成為系詞在第三世紀以后而萌芽于東晉的觀點,指出演變為系詞的“是”不是純粹指代詞,它有以指示表肯定的意義。并用大量語言事實列出先秦、漢、魏用“是”作系詞之例,提出“考之實際,‘是’這個系詞在西漢前期就產生了,不始于東晉”。
“不是”的出現,在許多學者眼中,是系詞“是”成熟發展了的一個標桿。
許理和曾經說, “另一方面,‘是’正在從指示代詞向(半)系詞轉變,……我之所以把上面這些用法的‘是’稱作‘半系詞’,是因為在29篇佛經譯文中還沒有出現純粹的系詞的最充分的證據:用‘不’來否定‘是’。” 這一說法出現在《最早的佛經譯文中的東漢口語成分》中。在許多東漢佛經中,有很多“不是”的例子。比如:
心者本凈故,亦無沾污,亦復無凈。其心亦不在是是不是,其心若空,亦不可得獲,亦無有伴。(支婁迦讖譯《阿^世王經》卷下)
諸比丘,若以彈指間思惟死想,念有身皆死,是為精進行禪,為如佛教,不是愚癡食人施也。……諸比丘,若以彈指間念此諸想之事,皆為精進行,為奉佛教,不是愚癡食人施也,何況能多行?
其法不是弊魔及魔天之所滅,亦不是天中天弟子所滅。(支婁迦讖譯《阿z佛國經》卷下)
而三國譯經亦有許多“不是”的例子:“亦非是,亦非不是。”
二、上古有系詞
楊樹達、楊伯峻兩位先生不曾專門著述關于系詞“是”的文章,但他們在《詞詮》《論語譯注》《孟子譯注》等書的舉例中明確提出上古已有系詞“是”。“是”產生在春秋末期或戰國初期。.例如“曰:‘是魯孔丘與?’曰:‘是也。’《論語?微子》這句里的兩個‘是’。
董希謙先生認為周秦時代已經有系詞“是”的用法。他發表于河南大學學報社會科學版1985年第二期的《古漢語系詞“是”的產生和發展》中說: “可知從《詩經》、《左傳》、《論語》、到《孟子》、《荀子》、《韓非子》等文獻資料中均有判斷句存在,均有系詞“是”的用法。盡管例證較少,還處于萌芽狀態,但決不能否認它的存在,應該實事求是地給它應有的地位。他引例詩經:四四牡孔阜, 六髻在手, 哄騾是中, 騙驪是駱《詩經?秦風? 小戎》指出從古人注釋中可以看出先秦時期確實有系詞“ 是” 的用法。例中的“ 哄姍是中、馬民驪是駿” , 漢代鄭玄箋云“ 赤身黑盆日貓, 中, 中服也騷, 兩排也” 。孔穎達疏日“ 驥馬姍馬是其中, 謂為中服也,以及例證1973年底長沙馬王堆三號漢墓出土的一幅帛書中的彗星圖里的記載:是是彗星,有內兵,年大孰。董希謙指出,“是是彗星”中后一個是字屬于系詞。
石峰亦認為,“王力先生認為系詞產生于東漢初年,因為《論衡》里有系詞“是”,又因為王充是東漢前期人,由此而判定系詞出現在東漢初葉,這個推論本身就有問題,因為語言現象的產生絕對不是一夜之間的事。”而“《秦簡》是出土文獻,因此絕無后人改篡訛寫之虞。系詞‘是’在某種條件下(如口語、方言等)已較普遍地使用,否則像《日書》這種實用性較強的書面語是無法讓普通人接受的,也難以解釋《論衡》里突然冒出的并不算少的系詞‘是’”。石峰還在《《睡虎地秦墓竹簡》的系詞“是”》中提出“漢語中系詞“是”的出現不會晚于戰國時期,尤其在口語或方言中的運用更是如此。”
上述出土文獻中的“是是”句,又引發相關討論:
董希謙認為第二個“是”屬于系詞。而朱城認為,“是是”連用的后一“是”字可用作系詞,但不能一概而論。大致來說,當它在判斷句中,應為系詞,當它用于敘述句中,則是副詞。而梁冬青則認為,“是是彗星”等五個“是是”句,第二個“是”字應屬副詞。
朱聲琦認為先秦早在《詩經》、《左傳》時代就產生了真正的判斷詞“是”。“先秦判斷詞‘是’是大量存在著的,這是肯定了的。”他的根據是,如果‘是’用在代詞或有指示作用的語氣詞后面,又緊連著后面的名詞形容詞謂語,這個‘是’便是判斷詞,因為一般不可能有兩個代詞連用以指代同一個對象。而如果“是”用在副詞后面,一般應斷為判斷詞,因為代詞不被副詞修飾。還舉出“是”與“非”對偶的例證。朱聲琦先生旗幟鮮明地提出:“‘孤證’不一定不可靠,‘例不十,法不立’的說法不一定全面。發現了一個,就是有。”
王霽云認為,早在東周之前,甚至是西周時代就出現了判斷詞“是”,只不過那時用的不是“是”,而是“時”,并且在《詩經》和《尚書》中都出現了這樣的用法。
回敬嫻在《古漢語系詞“是”的產生――《詩經》中的系詞“是”》中指出:“‘是’作為判斷詞,即系詞,最早始于《詩經》時期。”作者還認為“是”作系詞是從口語進入到書面語的,《詩經》中無論十五國風,還是二雅、三頌都保留著口語的特點,所以會出現“是”作系詞的形式,而這也是同時期的其他作品中不見“是”作系詞的主要原因。
三、結語
綜上,關于系詞“是”產生的時代各家說法不一,爭論的焦點集中在“是”是否由指代詞演化而來。這是從語言結構上來說的。
新近有學者從語言哲學的角度,提出“是”具有隱在的神性,并提出中華民族“是”的觀念來源于甲骨文中的“時”。 或許我們的學者可以另辟蹊徑,從語義的角度,重新分析系詞“是”產生的時代。
參考文獻:
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